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2020.3.11

『東日本大震災から9年——「人間の復興」へ向けて(上)』

こんにちは。平木だいさくです。

本日で、東日本大震災の発災から9年となりました。

改めて、犠牲となった方々に哀悼の意を捧げます。

いまだ『人間の復興』に向けた歩みは道半ば。復興に向けた思いと決意をつづりました。

“思い”を詰め込みすぎて、長文となったため、今日と明日の2回に分けての配信となります。

尚、この文章は、党青年委員会のBLOGに本日掲載したものの転載です。普段の書式と異なるところもありますが、ご理解頂ければと思います。

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まとめ
▼未曽有の災害となった東日本大震災。当時の民主党政権の危機管理能力が厳しく問われた
▼公明党は発災から半年間で復興庁設置など政策を16回提言し、震災関連11本の法律・予算を成立させた
▼さらに仮設住宅の追い炊き機能追加を実現するなど、現場第一で被災地の復興に尽くした

 

1、震災復興はいまだ道半ば

東日本大震災の発災から9年。

当初、復興庁の設置期限が2021年3月末までとされるなど、“発災から10年”は復興の目安とされてきました。ところが、被災地からは「真の復興はこれから」という声を数多く伺います。

公明党は、被災地への関心が薄れる「風化」と「風評被害」という“2つの風”と闘いながら、被災されたお一人おひとりの思いを軸にした『人間の復興』を掲げ、発災から現在に至るまで、全ての国会議員が被災地に入り、復興政策の推進に取り組んできました。

本稿では改めて、これまでの復興の道のりを概観するとともに、今後の展望についても少し触れたいと思います。

尚、筆者は震災後の2013年に初当選させて頂いたのち、これまで一議員として、また福島県担当の復興大臣政務官、更には原子力災害担当の内閣府大臣政務官として、たびたび現地を訪れてきました。

復興に携わる中で見たこと、感じたことも記せればと思います。

2、厳しく問われる「危機管理能力」

自然災害などで国民の生命、財産が脅かされる緊急事態に直面した時、時の政権、政治家がそれを乗り越えるだけの「危機管理能力」があるかどうかは非常に重要です。

今、世界中で猛威を振るっている新型コロナウイルスへの対応をめぐっても、日本のみならず、各国政府の手腕が厳しく問われています。

死者1万6000人近く、行方不明者はいまだ2500人を超える東日本大震災は、間違いなく未曽有の自然災害となりました。

同時に、この災害によって、当時の民主党には、政権に欠かせない「危機管理能力」があまりに欠如していたことが浮き彫りになりました。

当時、公明党は野党でしたが、発災直後から民主党に政治休戦を申し入れ、発災後30分で地震対策本部を設置。全ての国会議員が被災3県いずれかを担当して総出で被災地に急行。

東北以外から駆け付けた多くの地方議員とも連携しながら、政府に対し、現場のニーズを踏まえた政策提言を重ねてきました。

発災から半年間に限っても、公明党による政策提言は計16回に及び、震災に関連する11本の法律・予算の成立をリード。省庁横断的に復興政策を進める「復興庁」創設も、公明党の積極的な働き掛けで実現しました。この話は後述します。

一方、民主党政権の対応は、と言えば、後手後手ばかり。

生活再建に欠かせない除染や住まいの確保において、何も決められない状態が続く中で、被災者や被災自治体からの不満、不信感が鬱積していきました。

「遅い、鈍い、心がない」と批判されたゆえんです。

当時の様子をメディア報道で振り返ってみると、原発事故をめぐって、閣僚や政府・自治体幹部との会合で、地元の怒りが噴出する場面が度々登場します。

例えば、震災から10カ月後、地元紙の「福島民報」は2012年1月9日付で、現地を訪れた当時の菅直人総理に、地元町長が「私たち双葉郡民を日本国民と思っていますか」と問い詰める様子が描かれています。

また、就任したばかりの松本龍復興担当大臣(当時)が被災地の県知事を叱り飛ばし、「俺は九州の人間だから、東北の何市がどこの県か分からない」などと軽口を叩く光景がテレビや新聞を通じて報じられると、全国民に大きな失望が広がりました。

本来、復興に向けて協力しあう政府と自治体の関係が、ここまでこじれてしまうのは異例のこと。我慢の限界に達した当時の雰囲気をうかがい知ることができます。

災害対応に与党も野党もないとして、政治休戦から始まった復興への歩みでしたが、民主党政権が復興政策をリードする場面は特になく、発災後、初めて開かれた党首討論では、公明党の山口代表が菅総理に「あなたに総理をお辞め頂くしかない」と珍しく声を荒げるほどでした。

自民、公明両党による政権交代が実現したのは、震災の翌年、2012年の年末。

未曽有の大災害が起きてから、およそ1年9カ月の間、政治の機能不全をつくってしまったことは、その後の復興にとって大変な足かせとなりました。

したがって、政権に復帰した後、公明党が真っ先に取り組んだのは、被災者や自治体との間の壊れた信頼関係の回復でした。

先頭に立ったのは、復興副大臣に就任した浜田昌良参議院議員です。浜田議員は着任早々、福島市内へ住まいを移し、福島県常駐の副大臣として活動をスタートさせます。

当時の様子について、浜田議員は「霞が関や永田町では見えなかった、被災地の状況がわかるようになった」と述懐します。

例えば、朝起きてポストをのぞくと、除染作業員の募集チラシを目にし、市の広報には仮置き場や放射線量低減の進捗状況が載っている。現地の方に「福島に引っ越してきました」と挨拶すると、率直な思いを話して下さる。

浜田議員は、こうした“現場に寄り添う”を地でいく活動とともに、国の出先機関を福島復興再生総局に一元化し、現場で即断即決できる体制を構築するなど、矢継ぎ早に手を打っていきます。

そして、2013年2月17日、国と被災自治体との意見交換会において、自治体側から自然と拍手が起こります。それまで、怒号を浴びせられてきた復興庁職員も驚いたその場面は、政府と自治体の関係が正常化に向けて動き出した瞬間でした。

3、現場主義が光った『仮設住宅総点検』

国内観測史上最大のマグニチュード9.0の地震、そして、各地を襲った巨大津波によって、多くの被災者が生活の基盤となる住まいを失いました。

倒壊した家屋は、全壊が約12万2000戸、半壊が28万3000戸にのぼります。

福島、宮城、岩手の被災3県を中心に、多くの公明党の地方議員が被災しました。自宅を津波で流され、避難所生活を余儀なくされる中にあっても、公明議員は「自分のことは後回しでいい」と安否確認や救援物資の搬送に駆け回り、避難所を訪ね歩き、困りごとを伺って歩きました。

こうして現場を歩いて集められた声は、緊急提言や国会での質疑を通じて、政府に対応を迫ることになります。

なかでも、公明党らしさが大いに発揮されたのが、『仮設住宅総点検』でした。

災害公営住宅の建設が思うように進まない中、震災から1年が経過した時点でも、およそ11万7000人の被災者が5万3000戸の仮設住宅での不便な暮らしを強いられていました。

公明党が仮設住宅を何度も訪問して調査した結果、物置の設置と並んで、“お風呂の追い炊き機能追加”を求める切実な声が多く寄せられたのです。

詳しく伺うと、冬場は連日氷点下まで冷え込むこともあり、「すぐに湯が冷め、お風呂に入った気がしない」とのこと。

当初、民主党政権は「差し湯をして入って頂くしかない」との答弁を繰り返しましたが、調査を積み重ね、粘り強く訴える中で、追い炊き機能の追加を全額国費でまかなうことが決定したのです。

この実現について、宮城県の村井嘉浩知事は次のように評しています。

「(追い炊き機能追加は)残念ながら、われわれ県だけではできないことだったんです。しかし、公明党の議員の皆さんが、国と県と市町村とが一緒になって国にものすごい力を働きかけてくれました」

「公明党が一番、被災者の声をくみ上げているなと肌で感じました。復興がここまで進んだのは、公明党のおかげだと言っても過言ではないと思います」

「東日本大震災から9年——『人間の復興』へ向けて(下)」に続く